滅んだはずの武田家、信玄の孫は伊豆大島へ島流し、一族が戻るまで48年

日本史の地図のショート動画(2026-10-26 公開)の解説・出典は 2026-10-26 に確認

滅んだはずの武田家、信玄の孫は伊豆大島へ島流し、一族が戻るまで48年(動画の最初の画面)

答え

1582年、武田勝頼が天目山の戦いに敗れ、大名としての武田家は滅亡しました。けれど信玄の次男・信親(幼いころから目が見えず、同じ年に甲府の入明寺で自刃)の息子・信道は生き残り、甲府の寺の住職になっていました。1615年、信道夫妻と息子の信正は、先に処罰された大久保長安に関係があるとされて伊豆大島へ流され、家臣9人と野増に住みます。信道は1643年に島で亡くなり、信正が赦されて一族と本土へ戻ったのは48年目の1663年でした(東京都教育委員会)。甲府の入明寺には、信玄から8代後の子孫・護信が作った信親の木像が伝えられています(甲府市)。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

1582年

根拠:「天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いで敗れると」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

信玄の跡を継いだ勝頼

根拠:「後継者である勝頼に」(yamanashi-nenpyo)

天目山の戦いに敗れ

根拠:「武田勝頼が天目山の戦いで敗れると」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

武田家は滅亡した

根拠:「武田家滅亡後」(yamanashi-nenpyo)

徳川家康が、勝頼たちを弔う寺

根拠:「天正10年(1582年)に徳川家康が武田勝頼主従の菩提を弔うために創建した。」(山梨県/山梨の文化財ガイド(データベース)史跡sc0009)

景徳院

根拠:「所有者又は管理者 景徳院」(山梨県/山梨の文化財ガイド(データベース)史跡sc0009)

次男の信親

根拠:「信玄公の二男・武田信親(竜宝・竜芳)」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

幼いころから目が見えなかった

根拠:「信親は幼少から目を患い、盲目に。」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

勝頼が敗れた同じ年、信親も甲府の入明寺で自ら命を絶った

根拠:「天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いで敗れると、信親は入明寺境内で自刃(42歳)。」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

42歳

根拠:「信親は入明寺境内で自刃(42歳)」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

甲府

根拠:「所在地:甲府市住吉4-13-36」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

信親の息子、信道

根拠:「武田信玄の次男竜芳(宝)の子。」(顕了道快(けんりょう どうかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

信道

根拠:「俗名は武田信道。」(顕了道快(けんりょう どうかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

信玄の孫

根拠:「武田信玄の孫、信道夫妻とその子信正は」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

甲府の寺の住職

根拠:「甲府長延寺の住職。」(顕了道快(けんりょう どうかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

1615年

根拠:「信正は寛文3(1663)年に赦されて、48年目に一族と共に内地に帰った。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

信道夫妻と息子の信正

根拠:「信道夫妻とその子信正は、元和元年、先に処罰された甲州代官大久保長安に関連有りとされ、連座の罪で大島に流された。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

先に罰を受けていた役人、大久保長安の仲間だとして

根拠:「先に処罰された甲州代官大久保長安に関連有りとされ、連座の罪で大島に流された。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

島流し

根拠:「連座の罪で大島に流された。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

伊豆大島

根拠:「元和(げんな)元年伊豆(いず)大島に流され」(顕了道快(けんりょう どうかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

家来9人を連れて野増という村に住み

根拠:「信道夫妻は家臣9名を伴い野増に居住した。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

屋敷は石垣を巡らせた約21坪

根拠:「屋敷跡は、約21坪の地に石垣を巡らし」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

信道は1643年、島で亡くなった

根拠:「信道は寛永20(1643)年に大島で没し」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

家来のうち5人も、島で亡くなっている

根拠:「同行した9名の家臣のうち5名は大島で没した。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

信正が罰を解かれたのは1663年

根拠:「信正は寛文3(1663)年に赦されて」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

48年目

根拠:「48年目に一族と共に内地に帰った。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

屋敷の跡と供養塔は今、東京都の史跡

根拠:「昭和31(1956)年に武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡として東京都の史跡に指定されている。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

供養塔

根拠:「野増墓地には信道夫妻と家臣5名の供養塔があり」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

信玄から8代あとの子孫、護信が作った信親の木像

根拠:「信玄公から8代後の護信が作った信親の木像が伝えられています。」(甲府市/信玄公(武田家)ゆかりの場所)

罪に問われた

根拠:「連座の罪で大島に流された。」(武田信道及び家臣供養塔並びに屋敷跡【たけだのぶみちおよびかしんくようとうならびにやしきあと】|島内の文化財等一覧(大島町)|大島出張所)

出典

画像・音声の出典

肖像:武田信玄像(模本)東京国立博物館所蔵(ColBase https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9220 )

衛星画像:NASA Blue Marble(NASA GIBS)/地形:ASTER GDEM(NASA/METI、NASA GIBS)/地図データ:Natural Earth。印・線の位置はおおよそ(線は移った先と向きを示すもので、実際の道のりではありません)。家系図は主な人だけです

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

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