大谷吉継の首の場所を、敵は家康にも明かさなかった(関ヶ原の約束と2つの墓)

答え
1600年、関ヶ原の戦いに敗れた大谷吉継は、家臣の湯浅五助に「病で崩れた顔を敵にさらすな」と言い残して自害したと伝わります。五助は主君の首を戦場から離れた場所に埋め、そこへ来た敵・藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に、自分の首を差し出す代わりに埋めた場所を秘密にしてほしいと頼みました。高刑は徳川家康に問いつめられても場所を明かさず、家康は感心して自分の槍と刀を与えたと伝わります(『平尾氏箚記』ほか。江戸時代の軍記・家譜の伝承で、異説もあります)。首は東軍に見つからず、関ヶ原の吉継の墓は戦のあとまもなく藤堂家が建て、隣の五助の墓は大正5年(1916年)に湯浅家(子孫)が建てたものです。首については、家臣が首を運び滋賀県米原市に埋めたという言い伝え(首塚)もあります。
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動画で言ったことと、その根拠
動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。
病で崩れた顔を敵にさらすなと言い残し
根拠:「吉継は「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯を受け、自刃したと言われています。」(白巾の将・大谷吉継が辿った生涯|大病から復帰し、友人・石田三成とともに家康に立ち向かった名将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2)
五助は主君の首を、戦場から離れた場所に埋めた
根拠:「五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。」(wp-yuasa)
そこへ現れたのが、敵の藤堂高刑だ
根拠:「埋め終わった時に、五助は[[藤堂高虎]]の軍に所属する[[藤堂高刑]]に発見される」(wp-yuasa)
私の首を差し出す。だから、ここに埋めたことは、誰にも言わないでくれ
根拠:「我が首を差し出します故、代わりに主君の首をここに埋めた事を秘して下さらぬか」(wp-takanori)
五助なら、主君の首の場所を知っていたはずだ
根拠:「五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。」(wp-takanori)
言えば、大手柄だった
根拠:「吉継の首のありかを言えば、更なる大手柄になるというのに頑としてありかを言わない姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えた、という話が今日まで伝わっている。」(wp-takanori)
私を罰してください
根拠:「しかし高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わず、自分を処罰するように求めた。」(wp-yuasa)
自分の槍と刀を高刑に与えたと伝わる
根拠:「その姿勢に家康は感心し、自分の[[槍]]と[[日本刀|刀]]を与えたという『平尾氏箚記』。」(wp-yuasa)
明治の戦史も、この話に、約束を変えず、と題をつけた
根拠:「editor=参謀本部 |year =1893| title =日本戦史. 関原役|publisher =元真社|url={{NDLDC|771073/87}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter= 藤堂仁右衛門湯浅五助ノ約ヲ変セス」(wp-takanori)
吉継の首は、東軍に見つかることはなかった
根拠:「自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により、関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。」(大谷吉継 - Wikipedia)
建てたのは、敵だった藤堂家だ
根拠:「吉隆戰沒後程ナク藤堂家ヨリ建テタル五輪石塔」(地域から見る 文化遺産オンライン)
その隣に、およそ300年後、子孫が五助の墓を建てた
根拠:「慶長5年([[1600年]])…[[大正]]5年([[1916年]])、五助の子孫により建立されたものである」(wp-yuasa)
五助の介錯で自害したと伝わる
根拠:「家臣の湯浅五助の介錯を受け、自刃したと言われています。」(白巾の将・大谷吉継が辿った生涯|大病から復帰し、友人・石田三成とともに家康に立ち向かった名将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2)
高刑は頼みを受けて、五助の首を取った
根拠:「と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。」(wp-yuasa)
家康は手柄を褒め、そして問いつめた
根拠:「五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っていたはずだと、高刑を詰問した。」(wp-yuasa)
五助の首は、家康の本陣へ届けられた
根拠:「[[徳川家康]]の本陣に報告した。」(wp-yuasa)
主君の首を隠すため、自分の首を敵に差し出した家臣
根拠:「「このことは秘してほしい」と請い、代わりに五助自らの首を差し出したそうです。」(白巾の将・大谷吉継が辿った生涯|大病から復帰し、友人・石田三成とともに家康に立ち向かった名将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2)
出典
- 文化遺産オンライン「関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚」https://online.bunka.go.jp/heritages/region/21/21362
- サライ.jp「大谷吉継」(『国史大辞典』参照)https://serai.jp/hobby/1151306/2
- Wikipedia「湯浅五助」「藤堂高刑」「大谷吉継」(参謀本部『日本戦史 関原役』1893年「藤堂仁右衛門湯浅五助ノ約ヲ変セス」ほか) (2026年10月31日に確認)
画像・音声の出典
錦絵:落合芳幾「太平記英勇伝 湯浅吾助」「太平記英勇伝 大谷刑部少輔吉隆」・月岡芳年「本朝智仁英勇鑑 徳川内大臣家康公」「関ヶ原大合戦之図」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)、永島孟斎「大日本名家揃」(国立国会図書館デジタルコレクション)。錦絵は明治の画家が描いた想像の姿です
地形:ASTER GDEM(NASA/METI)/地図データ:Natural Earth。陣・墓の位置はおおよそです
VOICEVOX:青山龍星
効果音:効果音ラボ