真田家が明治維新まで残った理由

日本史の地図のショート動画(2026-10-21 公開)の解説・出典は 2026-10-19 に確認

真田家が明治維新まで残った理由(動画の最初の画面)

答え

関ヶ原の戦い(1600年)で、真田昌幸と次男の幸村(信繁)は西軍、長男の信之は徳川の東軍につきました。昌幸・幸村は上田城で徳川秀忠の軍を足止めし、秀忠は関ヶ原に間に合いませんでしたが、戦いは西軍の負け。上田の領地は東軍で功のあった信之に与えられ、信之は1622年(元和8年)に松代へ移り、真田家は10代、明治維新まで松代を治めました。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

関ヶ原で、負けた西軍についた、真田昌幸。

根拠:「1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に,父や弟幸村は西軍にくみしたが」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

真田家は、明治維新まで、殿様として残った。

根拠:「真田氏が松城を領有し、10代幸民の時、明治維新を迎えた。」(松代城跡<BR/> 附 新御殿跡 文化遺産オンライン)

親子が、2つに分かれたことにある。

根拠:「上田領は長男信之に与えられた。信之は父弟と分かれ,東軍に従って功があったからである。」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

父の昌幸と、弟の幸村は、石田三成の西軍。

根拠:「石田三成(みつなり)の密使が訪れ、父と弟は石田方について徳川の陣を離れたが」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

長男の信之は、徳川の東軍についた。

根拠:「信之は徳川家康方についた。」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

上田城は、1583年に、昌幸が築いた城だ。

根拠:「天正十一年眞田昌幸ノ築キタル平城」(上田城跡 文化遺産オンライン)

1600年、昌幸と幸村は、ここに立てこもり

根拠:「慶長五年昌幸幸村父子此城ニ籠リテ」(上田城跡 文化遺産オンライン)

中山道を西へ進む、徳川秀忠の大軍を、足止めした。

根拠:「中山道を進もうとする徳川秀忠軍3万余を釘づけにして武名をあげたが」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

秀忠は、関ヶ原の戦いに、間に合わなかった。

根拠:「遂ニ秀忠ヲシテ関ヶ原戰ニ参加スルコト能ハサラシメタリ」(上田城跡 文化遺産オンライン)

長男の信之は、秀忠の先鋒として、父の上田城を、攻めていた。

根拠:「信之は徳川秀忠の先鋒として父の居城,信州上田城を攻めた。」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

昌幸と幸村は、紀州の九度山に、とじこめられた。

根拠:「戦後は紀州の九度山に幽閉され」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

上田の領地は、東軍で手柄を立てた、長男の信之に、与えられた。

根拠:「上田領は長男信之に与えられた。信之は父弟と分かれ,東軍に従って功があったからである。」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

1622年、信之は

根拠:「22年(元和8)に松代に移封され」(真田信之(さなだのぶゆき)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

北へ約20キロの、松代に移った。

根拠:「真田信之が13万石に加増されて上田より松城に入封して以来」(松代城跡<BR/> 附 新御殿跡 文化遺産オンライン)

文化庁の解説では、13万石に加増されての

根拠:「真田信之が13万石に加増されて上田より松城に入封して以来」(松代城跡<BR/> 附 新御殿跡 文化遺産オンライン)

真田家は、10代、明治維新まで、松代を治めた。

根拠:「真田氏が松城を領有し、10代幸民の時、明治維新を迎えた。」(松代城跡<BR/> 附 新御殿跡 文化遺産オンライン)

出典

画像・音声の出典

肖像:国立国会図書館デジタルコレクション 栗原信充『肖像集』(江戸後期写、パブリック・ドメイン)

地形:ASTER GDEM(NASA/METI/AIST/Japan Spacesystems, U.S./Japan ASTER Science Team、NASA GIBS)/衛星画像:NASA Blue Marble(NASA GIBS)/地図データ:Natural Earth

中山道・移動の線、印の位置はおおよそです。石高は資料により異なります(文化庁の松代城跡の解説は13万石)。

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

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