石田三成の孫は津軽の殿様に

日本史の地図のショート動画(2026-11-05 公開)の解説・出典は 2026-11-03 に確認

石田三成の孫は津軽の殿様に(動画の最初の画面)

答え

関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた石田三成。そのころ大坂城にいた次男・重成は、津軽家の信建と城を抜け出し、若狭の小浜から21人で津軽(今の青森県板柳町の深味)へ逃れ、「杉山源吾」と名を変えて暮らしたと伝わります(青森県の文化財の紹介)。三成の娘・辰姫は津軽の2代藩主・信枚の妻となり、2人の子・信義が1631年に3代藩主になりました(弘前観光コンベンション協会の資料)。三成が秀吉から与えられたという高さ7センチの秀吉の像は、2代信枚が幕府に遠慮して城内の神社の奥に隠し、明治4年に社殿を解体したとき初めて外に出されたと伝えられています(弘前市)。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

1600年、三成は関ヶ原で敗れ

根拠:「慶長5年(1600)9月 17 日」(aomori)

居城の佐和山城も落ちた

根拠:「佐和山落城を聞き」(aomori)

次男の重成は、津軽家の長男と城を抜け出した

根拠:「為信…の長男)と石田重成(しげなり:三成の次男)…大阪城を脱出」(aomori)

そこから21人で、北の津軽へ逃れた

根拠:「浜から総勢 21 人…に津軽へ逃れ」(aomori)

今の青森県板柳町の深味

根拠:「深味の里に辿り着いた」(aomori)

徳川の詮索で津軽家に迷惑がかかるのを恐れた

根拠:「徳川幕府の詮索と、津軽家への迷惑…波及を思慮し」(aomori)

重成は杉山源吾と名を変え

根拠:「杉山源吾と名乗り深味に隠棲」(aomori)

秀吉の小さな像も津軽へ持ち込まれたと伝わる

根拠:「津軽に持ち込まれたものと伝えられる」(木造豊太閤坐像 - 弘前市)

高さわずか7センチ

根拠:「像高わずかに7センチメートルの木造」(木造豊太閤坐像 - 弘前市)

三成が秀吉からもらったものだという

根拠:「石田三成に与えられたものだという」(木造豊太閤坐像 - 弘前市)

2代目の信枚

根拠:「津軽信枚( 2代藩主)」(hirosaki-kanko)

幕府に遠慮して、像を城の中の神社の奥に隠した

根拠:「二代藩主信枚は、幕府に遠慮し、これを城内の館神本殿稲荷神像の背後に秘祀し」(木造豊太閤坐像 - 弘前市)

外に出たのは、明治4年。神社を壊したときが初めてだった

根拠:「明治4年の館神社殿解体の際にはじめて外に出された」(木造豊太閤坐像 - 弘前市)

信枚の妻になったのは、三成の別の子、娘の辰姫だった

根拠:「津軽信枚( 2代藩主)…辰姫が正室扱い…石田三成3女」(hirosaki-kanko)

2人の間に生まれた男の子が、のちの信義だ

根拠:「1619(元和 5)年1月1日…*長男〔側室:辰姫」(hirosaki-kanko)

信義は1631年、津軽の殿様を継いだ

根拠:「津軽信義( 3代藩主)…1631(寛永 8).4月」(hirosaki-kanko)

三成の孫が、北の城の主になった

根拠:「3代藩主…石田三成3女」(hirosaki-kanko)

石田三成の孫は、青森の津軽で殿様になった

根拠:「3代藩主…石田三成3女」(hirosaki-kanko)

出典

画像・音声の出典

肖像:石田三成像(模写、東京大学史料編纂所)Wikimedia Commons

錦絵:月岡芳年「関ヶ原大合戦之図」「大日本名将鑑 徳川家康公」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)/芳年「月百姿 しつか嶽月 秀吉」(国立国会図書館デジタルコレクション)

絵図:国立国会図書館『日本古城絵図』奥州津軽弘前城

写真:Ari Helminen「弘前城、青森 Hirosaki Castle」CC BY 2.0(Flickr)/Akinori YAMADA「Hirosaki Castle」CC BY 2.0(Flickr)

衛星画像:NASA Blue Marble(NASA GIBS)/地図データ:Natural Earth。印・線の位置はおおよそ

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

日本史の地図のほかの解説

YouTube チャンネル「日本史の地図」