伊能忠敬は日本地図の完成を見ていない

日本史の地図のショート動画(2026-11-05 公開)の解説・出典は 2026-11-05 に確認

伊能忠敬は日本地図の完成を見ていない(動画の最初の画面)

答え

日本中を測って地図を作った伊能忠敬。でも、1818年に73歳で亡くなったとき、日本全図はまだ完成していませんでした。忠敬の死は正式には公表されないまま、残された地図は3年後の1821年、弟子たちの手で仕上げられ、「伊能忠敬」の名前で幕府に提出されます(大図214枚・中図8枚・小図3枚)。忠敬は遺言により、師・高橋至時の隣に葬られました(源空寺)。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

自分が作った日本地図の完成を見ていない

根拠:「地図の完成をみることなく」(katori-youran)

千葉の佐原

根拠:「千葉県香取市佐原」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

商家のあるじとして、50歳まで家業と村の仕事を務めた

根拠:「忠敬は17歳から50歳までこの家で、主な家業である醸造のほか村のため名主や村方後見として活躍しました」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

家をゆずって江戸へ出ると

根拠:「家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

高橋至時に弟子入りする

根拠:「高橋至時の弟子となる」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

55歳で北海道の南の海岸を測ったのを始めに、71歳まで10回、日本中を測った

根拠:「55歳で北海道南岸の測量を行い、以後計10回に及ぶ日本全国の測量を71歳まで行いました」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

ひとつの日本全図にまとめるため、忠敬は江戸の八丁堀に家を移した

根拠:「自宅を八丁堀亀島町へ移す」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

日本全図にまとめるため

根拠:「日本全図完成のため、黒江町から引越しましたが」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

1818年、地図の完成を見ないまま、73歳で亡くなる

根拠:「文政元年(1818) 73歳 死去」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

忠敬の死は、正式には公表されなかった

根拠:「忠敬の死…は正式には公表されないまま」(katori-youran)

弟子たちの手で仕上げられていく

根拠:「弟子たちによ」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

3年後の1821年

根拠:「文政元年(1818) 73歳 死去…文政4年(1821)」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

伊能忠敬の名前で、幕府に出された

根拠:「の名前で幕府に提出され」(katori-youran)

大きな地図だけで214枚

根拠:「大図214枚」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

忠敬の墓は、源空寺にある

根拠:「源空寺墓」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

遺言どおり、師匠の高橋至時の隣だ

根拠:「忠敬の遺言により、師高橋至時の隣に葬られました」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

髪と爪が納められたと伝わる

根拠:「遺髪と爪が埋葬されていると言われています」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

測量は、およそ17年。その間、忠敬は毎日、日記を書き続けた

根拠:「55歳から71歳まで約17年間の測量中、毎日日記を書き留めていました」(忠敬の足跡:香取市ウェブサイト)

明治以降も、国の基本の地図の一つとして使われた

根拠:「明治以降国内の基本図の一翼を担いました」(伊能忠敬とは:香取市ウェブサイト)

出典

画像・音声の出典

肖像:青木勝次郎「伊能忠敬像」(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

地図:[大日本沿海輿地全図] 第58図・第88図・第90図・第96図・第100図(明治初めの写し、国立国会図書館デジタルコレクション)

写真:TANAKA Juuyoh(田中十洋)「Gutter Bridge / 樋橋」「Japanese traditional style shops」「Japanese traditional style fireproof warehouse」(CC BY 2.0、Flickr)

衛星画像:NASA Blue Marble(NASA GIBS)/地図データ:Natural Earth。印・線の位置はおおよそ(測量の線は1回目の道筋のおおよそ)

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

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