宇喜多秀家は八丈島へ、妻・豪姫は金沢へ|前田家の仕送りは明治まで

日本史の地図のショート動画(2026-11-03 公開)の解説・出典は 2026-11-03 に確認

宇喜多秀家は八丈島へ、妻・豪姫は金沢へ|前田家の仕送りは明治まで(動画の最初の画面)

答え

1600年、関ヶ原の戦いに敗れた岡山の大名・宇喜多秀家は、薩摩の島津家に逃れたのち、島津家と前田家の命ごいで死罪をまぬがれ、1606年に八丈島へ流されました。妻の豪姫(前田利家の娘で、豊臣秀吉の養女)は同行を望みましたが許されず、実家の前田家のある金沢で暮らし、1634年に亡くなりました。前田家は八丈島へ1年おきに白米70俵・金35両や衣類・薬を送り続け、仕送りは秀家が1655年に84歳で亡くなったあとも、一族が許される明治2年(1869年)まで続いたと岡山県は紹介しています。翌年、子孫の8家75人は島を出て金沢藩に身を寄せ、前田家の江戸の屋敷の跡(今の東京都板橋区)に移り、秀家の廟所を造りました(一族の多くはのちに八丈島へ戻っています)。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

八丈島へ流された

根拠:「1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

秀家は岡山の殿様で、五大老の一人

根拠:「豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

妻の豪姫は、前田利家の娘で、秀吉の養女だった

根拠:「宇喜多秀家の正室。前田利家の四女。豊臣秀吉の養女。」(豪姫 - Wikipedia)

1600年、関ヶ原で負けた秀家は、薩摩の島津家にかくまわれた

根拠:「慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成に加勢し、敗戦後は薩摩島津氏の下で3年蟄居(ちっきょ)していましたが」(時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」|板橋区公式ホームページ)

島津家と前田家が命ごいをして、死罪はまぬがれた。1606年、送られた先が八丈島だ

根拠:「島津家・前田家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

息子2人

根拠:「慶長11年(1606年)4月に息子2人(孫九郎秀隆・小平次)などとともに八丈島に移された」(宇喜多秀家 - Wikipedia)

など13人

根拠:「秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

豪姫は一緒に行きたいと願ったが、許されなかった

根拠:「秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなった。」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

豪姫は実家の前田家に戻り、金沢で暮らした

根拠:「慶長12年(1607年)頃、金沢に引取られた」(豪姫 - Wikipedia)

1634年、61歳で亡くなったとき、秀家はまだ島にいた

根拠:「寛永11年(1634年)5月、死去。享年61」(豪姫 - Wikipedia)

前田家は島へ、1年おきに、白米70俵と金35両、衣類や薬を送り続けた

根拠:「1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられた。」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

秀家は島で50年を過ごし、1655年、84歳で亡くなった

根拠:「1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごした。」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

島には、息子たちの家が続いていた

根拠:「秀家とともに流刑となった嫡男・孫九郎と末子・小平次の子孫が八丈島で血脈を伝え、7家に分かれた」(宇喜多秀家 - Wikipedia)

仕送りが続いたのは、明治2年、1869年まで

根拠:「前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

秀家が亡くなってから、214年後だ

根拠:「1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまで…1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

翌年、8つの家の75人で島を出た

根拠:「明治2年(1869年)2月、新政府は宇喜多家の流罪を免じ、「旧来由緒」を理由に金沢藩に宇喜多孫九郎一族の扶助を命じました。翌年には宇喜多家(浮田家)子孫の8家75人が八丈島を離れ、金沢藩に身を寄せています。」(時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」|板橋区公式ホームページ)

江戸の前田家の屋敷の跡、今の東京・板橋に移り住んだ

根拠:「旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸のうち2万坪の提供を受けて、この地に帰農することになりました。」(時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」|板橋区公式ホームページ)

島流しから264年

根拠:「1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。…1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで」(宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島 - 岡山県ホームページ(東京事務所))

身を寄せた先は、前田家の金沢藩

根拠:「金沢藩に身を寄せています。」(時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」|板橋区公式ホームページ)

一族は、豪姫の実家の土地に、秀家をまつる場所を造った

根拠:「現在の板橋四丁目1番地に宇喜多秀家の廟所(びょうしょ)を造りました。」(時代を紡ぐ 「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」|板橋区公式ホームページ)

出典

画像・音声の出典

錦絵:落合芳幾「太平記英勇伝 浮田中納言秀家」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)、大蘇芳年「皇国二十四功 羽柴筑前守秀吉」(国立国会図書館デジタルコレクション)。錦絵は明治の画家が描いた想像の姿です

錦絵・絵葉書:月岡芳年「関ヶ原大合戦之図」・渓斎英泉「木曽街道 板橋之駅」・絵葉書「大賀郷村八重根港」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ/国立国会図書館デジタルコレクション)

写真:akabane_hiro2「Mount Hachijofuji」CC BY-SA 2.0・さかおり「Ukita Hideie's grave in Hachijojima」CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)、akabane_hiro2「nanbarasenjoiwa coast」「ogago coast」CC BY-SA 2.0・Hyougushi「Hachijojima Island」CC BY-SA 2.0・lensonjapan「Kanazawa Castle」CC BY 2.0・Japanexperterna.se「Okayama castle」CC BY-SA 2.0(Flickr)。一部を切り抜いて使用

地図:NASA Blue Marble/Natural Earth。国の範囲は国土数値情報(行政区域1920年)を加工したおおよその境界。位置・線はおおよそです

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

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