加藤清正の息子は熊本を取り上げられ、山形の庄内・丸岡で22年

日本史の地図のショート動画(2026-11-03 公開)の解説・出典は 2026-11-03 に確認

加藤清正の息子は熊本を取り上げられ、山形の庄内・丸岡で22年(動画の最初の画面)

答え

熊本城を築いた加藤清正。その息子・忠広は1611年、父の死で10歳で跡を継ぎましたが、1632年、江戸へ向かう途中で江戸に入ることを止められ、熊本の領地を取り上げられました(理由ははっきりせず、諸説あります)。行き先は出羽の庄内(今の山形県)。庄内の酒井家に預けられ、丸岡(今の鶴岡市)の1万石の城で、20人ほどの家臣と22年を過ごしたとされます。丸岡城跡の隣の天澤寺には、父・清正の記念碑があります。

動画で見る(YouTube・約1分)

動画

動画で言ったことと、その根拠

動画の一文ごとに、確かめた資料の原文の該当箇所を引用しています。

加藤清正の息子は

根拠:「肥後藩主加藤清正の三男」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

江戸へ向かう途中で止められ

根拠:「江戸参府途上で忠広は幕府より入府を差し止められた上、改易を宣告されました」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

熊本を取り上げられた

根拠:「52万石を没収され」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

熊本城は、父の清正が約7年かけて築いた

根拠:「加藤清正が慶長6年から同12年に至るまで凡そ7年を費して築いた名城」(熊本城跡 文化遺産オンライン)

1611年に清正が亡くなり、跡を継いだ息子の忠広は10歳だった

根拠:「1611年清正の死により,10歳で遺領相続」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

妻は将軍・秀忠の養女

根拠:「将軍徳川秀忠の養女を夫人とし」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

ところが1632年、大御所の秀忠が亡くなり、家光の世になった

根拠:「寛永9年(1632)、大御所秀忠が没し、将軍家光の治世になると」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

その年、熊本の領地は全部取り上げられた

根拠:「肥後熊本藩54万石は没収」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

理由は、今もはっきりしない

根拠:「などの説があります」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

忠広の子の光広も飛騨へ流され

根拠:「子光広も飛騨に流され,家は滅んだ」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

忠広の行き先は、出羽の庄内。今の山形県だ

根拠:「出羽(でわ)鶴岡藩(山形県)藩主酒井忠勝にあずけられた」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

庄内の殿様、酒井家に預けられた

根拠:「庄内地方の大名である酒井忠勝の管理下に置かれました」(丸岡城跡 - 紹介解説文(パンフレット)(観光庁 多言語解説文データベース。docx の本文を抜き出し))

酒井家は忠広を気の毒に思い、近くの丸岡の城を直した

根拠:「酒井家は忠広を憐れみ、丸岡城を改修し」(丸岡城跡 - 紹介解説文(パンフレット)(観光庁 多言語解説文データベース。docx の本文を抜き出し))

一代限りの1万石

根拠:「出羽丸岡に一代限り、1万石の所領を与えられ」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

忠広は20人ほどの家臣と、丸岡で22年を過ごした

根拠:「20人ほどの家臣とともに、丸岡で22年間を送りました」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

丸岡城の跡の隣の寺には

根拠:「隣接する天澤寺には、忠広の父、加藤清正(1562〜1611)の記念碑があります」(丸岡城跡 - 紹介解説文(パンフレット)(観光庁 多言語解説文データベース。docx の本文を抜き出し))

熊本から直線で約1,000km

根拠:「忠広を出羽に追放しました」(丸岡城跡 - 紹介解説文(パンフレット)(観光庁 多言語解説文データベース。docx の本文を抜き出し))

清正から続いた熊本の加藤家は、ここで終わった

根拠:「子光広も飛騨に流され,家は滅んだ」(加藤忠広(かとうただひろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)

熊本の50分の1ほどだ

根拠:「肥後熊本藩54万石は没収」(加藤忠広の改易~父・清正から受け継いだ肥後熊本を失った理由とは? | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る)

出典

画像・音声の出典

錦絵:大蘇芳年「芳年武者无類 主計頭加藤清正」(国立国会図書館デジタルコレクション)/月岡芳年「大日本名将鑑 徳川家光公井伊掃部頭」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)

写真:熊本城大・小天守閣 外観写真(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)

資料:「肥後国熊本城内絵図及歴代城主」(東京都立中央図書館 TOKYOアーカイブ)

絵図:国立国会図書館『日本古城絵図』出羽庄内鶴岡城図・肥後熊本城之図

衛星画像:NASA Blue Marble(NASA GIBS)/地図データ:Natural Earth。国の範囲は国土数値情報(行政区域1920年)を加工したおおよその境界。印・線の位置はおおよそ

VOICEVOX:青山龍星

効果音:効果音ラボ

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